安城市歴史博物館の施設を紹介します。
万歳は「新しい年がよい年であるように」との願いを、言祝ぎ(言祝ぎ=寿)のセリフにこめて舞う正月の祝福芸です。太夫と才蔵の二人がかわす、めでたくもおどけた言葉が、人々の笑いをさそい、そこに「福」がやってくると考えられていたのです。安城市の東別所町・西別所町は、この万歳師たちの本拠地のひとつでした。
万歳の歴史は古く、平安時代の宮中で行われた千秋万歳にまでさかのぼるといわれています。室町時代には民家をまわるようになり、江戸時代には都やその周辺だけでなく、各地に万歳師たちの拠点ができていました。
三河には安城の別所、西尾の森下、小坂井町(現豊川市)の宿に万歳師たちの集団がありました。さらに三河の他にも、大和(奈良県)、越前(福井県)、加賀(石川県)、尾張(愛知県)、伊予(愛媛県)、秋田(秋田県)、会津(福島県)など、東北地方から沖縄にいたるまで、さまざまな万歳がありました。
三河の万歳は、松平氏のころから徳川家にも出入りしたと伝えられ、江戸城や大名屋敷の座敷にあがり舞うことを許されていました。このことから、地元の三河よりもむしろ江戸で大いにもてはやされたようです。江戸では「万歳」といえば、それは三河万歳のことを指すほどでした。
もともと万歳は、家々の玄関先や門のあたりで舞う「門付け」が普通ですが、ごく一部には座敷に上がりこむことを許されていたグループもありました。三河の万歳は不特定多数の家々をまわる門付けよりも、檀那場をまわる座敷万歳が主流であったといわれています。こうした一種の格式が、さらに三河万歳の人気を高めていったのかもしれません。
明治時代になると、政府の神道国教化政策の下で万歳は禁止され、小坂井町の万歳は途絶えてしまいます。一方、別所や森下の万歳師は神道教導職として生き残る道を求めました。これにより装束や詞が神道風に変わり、新しい三河万歳のスタイルが生まれました。
戦後、別所では万歳を続ける人が少なくなったのに対して、尾張系の万歳が伝わっていた榎前・福釜町では盛んになり、安城の万歳として知られるようになりました。昭和42年(1968)、榎前・福釜の人たちを中心として三河万歳保存会が結成され、神道三河万歳の伝承者から古式のとおり伝授され、安城の三河万歳が復活しました。平成7年(1995)には、西尾市、幸田町とともに国に重要無形民俗文化財に指定されました。