Welcome to the page in
Anjo city Museum of History.

安城市歴史博物館の施設を紹介します。

江戸時代の村


 江戸時代の村は、大名や旗本、幕府、寺社などの領主によって治められていましたが、村請制により、領主は村単位で農民を統治していました。村請制とは、年貢完納の義務、行政業務、管理業務、領主法令の順守などを村が下請けする制度です。
 これらの業務は庄屋・組頭により行われていました。百姓代は庄屋や組頭の村政運営を監視する役目で、この3つの村役人は地方三役と呼ばれます。
 年貢免状(年貢割付状)は、領主が村あてに納入すべき年貢を命じたもので、村役人はそれぞれ百姓の持高(農民の所有する耕地面積)に応じて徴収し、完納する義務を負っていました。また、村人の戸籍も村ごとに作成されました(宗門人別改帳)。

 領主への訴願や村人の移動、転居に際しても村の証明が必要でした(村送り一札)。幕府や領主から達せられる法令は触留などに記録されていました(御触状写留)。特に村人の風紀の取締りが重要でした(五人組御改帳・博奕法度連印)。
 江戸時代初頭の検地により村の範囲が決められました。村の範囲には村人の住む集落と田畑などの耕地のほかに山や原地が含まれていました。これらの土地や、用水路や橋、堤防などは村が利用し、そのための管理や維持をしていました。


おもな史料

免定(箕輪村年貢割付状)

正徳3年(1713)
本館蔵(箕輪村文書)

 領主から村に出された史料で、その年の年貢の納入量や期限を命じたものです。箕輪村はこの年、本田畑176.9石余りの村高で、そのうち6石余りが引かれて、70.1石の年貢の納入が決められました。期限は11月29日でした。

村送り一札

安政7年(1860)
本館蔵(斎藤勘郎家資料)

 東端村利右衛門娘つた(35歳)が榎前村の甚七へ嫁入りで移動する際に作成された史料です。内容では、村にいた時は法度に背いていない事や旦那寺の事、キリスト教徒ではないことなどが書かれていました。このような婚姻や養子縁組によって旦那寺が変わる場合は、同じように元の旦那寺から新しく旦家となる寺へ「寺送り一札」が提出されます。

山田精一箕輪村移住につき請書

嘉永7年(1854) 
本館蔵(箕輪村文書)

 尾州海東郡蟹江本町(現蟹江町)の医者山田精一が箕輪村に移住する際に、親とその親類6人が身元を保証した史料です。あて先は箕輪村役人です。内容は公儀の法度を遵守すること、村の作法を守ることなどが書かれています。ちなみに箕輪村で医業渡世、つまり医者として移住した山田精一の孫は、日本のオーケストラの父といわれた作曲家の山田耕筰(耕作)です。


博奕法度連印

文化7年(1810) 
本館蔵(斎藤勘郎家資料)

 賭博禁止の遵守を村人一同が連印して誓約した帳面です。135人の名前が書かれています。

参州碧海郡志貴庄榎前村御検地水帳

慶安3年(1650)
本館蔵(斎藤勘郎家資料)

 慶安3年に、当時の榎前村の領主である甘縄藩がおこなった検地で作成されたものです。田畑の面積と所有者が書かれています。市域では、天正18年(1590)の太閤検地帳や慶長9年(1604)の三河国総検地による検地帳などが残されています。

堤溜池坪井帳

延享4年(1747)
本館蔵(斎藤勘郎家資料)

 榎村内の堤の長さ、溜池数、圦の数、坪井の数などが書かれています。


村方明細帳

寛政4年(1792)
本館蔵(斎藤勘郎家資料)

 榎前村の村高や検地帳書類冊数、橋・堤・溜池や圦、郷蔵・番屋・高札枚数、港町・城下への距離、野林の面積、人口・男女数、寺社などが書かれています。

村形明細書

その他の展示史料

五人組御改帳

文久4年(1864)
本館蔵(斎藤勘郎家資料)

郷蔵書上帳

延享4年(1747)
本館蔵(斎藤勘郎家資料)

御触状写留

文化9年(1812)・慶応2年(1866)
本館蔵(斎藤勘郎家資料)