安城市歴史博物館の施設を紹介します。
堀内貝塚は、昭和2年(1927)の道路改修工事の際に発見されました。貝塚は台地東側の縁辺部斜面に堆積しており、集落の一角に形成された小規模なもので、厚さは最大で1.1mです。
当時、矢作川は現在のように碧海台地を掘り抜いて西側に抜けておらず、台地の東側を流れていました。当時の海岸線は、現在よりも内陸側でしたが、既に西尾市域まで後退しており、安城市域は陸化していました。堀内貝塚は海に面していない場所に形成された貝塚だったのです。また、現在は油ヶ淵が湖沼として残っていますが、当時は内湾が大きく入り込んでおり、内海を形成していました。
堀内貝塚から出土した動物遺体は、貝類が最も多いですが、その他にも獣骨や魚骨なども見つかっています。
貝類は、ハイガイ・マガキが主体で、これらだけで全体の80%を占めており、他に少量のハマグリ・アサリ・タニシ類などがあります。ハイガイやマガキは泥質の海に生息するため、主に5㎞ほど離れた衣浦湾まで、アサリやハマグリは砂浜に生息するため、主に西尾市域の海岸付近に採りに行っていたと考えられています。
獣骨は他の遺跡と同様に、シカとイノシシの骨が圧倒的で、この2種類だけで90%近くを占めています。魚骨は、コイをはじめとする淡水魚が半数以上を占めており、堀内貝塚が内陸に形成された貝塚であることを裏付けています。
魚類はコイ科・ウナギ科・ナマズ科などの淡水魚が過半を占めており、付近の川などで漁がされていたと考えられます。
平成7~8年(1995~1996)の調査では貝塚の北西部に当時の墓域が確認されました。土壙墓が13基、土器棺墓が19基見つかっています。これらのうちのいくつかでは人骨が残っており、当時の埋葬形態を考える上で非常に重要な資料となりました。
見つかった埋葬施設には土壙墓、土器の中に乳幼児を埋葬した土器棺墓、別の場所で骨だけにして再度穴を掘って埋め直した再葬墓の3種類があります。土壙墓は当時の大人の埋葬方法として最も一般的なもので、土器棺墓は乳幼児の埋葬方法でした。土器棺墓と土壙墓の埋葬区分は、調査事例からおおむね4歳を境に、それ以下の乳幼児が土器棺墓に、それ以上の子供や大人は土壙墓に葬られたようです。再葬墓については、なぜこのような埋葬方法がされたのか、どのような人たちが埋葬の対象だったのかはまだ謎に包まれています。
当時の人々の住居として最も一般的な住居は竪穴住居と考えられていますが、この時期の集落を調査しても、なかなか竪穴住居は見つかりません。堀内貝塚の調査でも、墓は数多く見つかりましたが、明確な竪穴住居は見つかりませんでした。当時の集落は、住居と墓地が分離した形ではなく、住居の隣に墓地が作られるなど、両者が混在していたと考えられています。このため、ごく浅い掘り込みしかない竪穴住居か、掘り込みを伴わない平地式の住居に住んでいた可能性が高いと考えられています。